子育て通信より ぽっかり空いた連休

おはようございます。

[:すいえい:] [:すいえい:] 薪割りイベント 2013 [:すいえい:] [:すいえい:]
昨夜 早めに就寝したら こんな時間にお目覚め・・すいません。
村上春樹の新作を読みましたが・・私には理解不能・・もう一度順番を待って読み直します。(図書館でオーダーした) 
郡山ボランティアツアーを延期したら 連休4日がぽっかり空きました。家の片づけをしたり、庭仕事・・読書・・料理・・隆介も遠征でいないので夫婦の時間です。
(1)昨日、屋久島滞在中に飛び込んできた、ボストンのMITで警察官が撃たれて亡くなり、ボストンマラソン爆発の犯人ふたりが逃亡するというニュースは、いろいろなことを考えさせた。ツイッター上で、大量の情報が飛び交い、そのうちのかなりの部分が現場の体験だった。
(2)CNNやFoxなどのニュース局よりも、ツイッターでの情報の方が速い。そんな事態がずっと続き、ニュース局も結局ツイッターを引用するというケースも多かった。「犯人」についての情報がソーシャルメディアで出回り、追跡が支援され、避難が呼びかけられる臨場感のある事態。
(3)一方、ツイッター上の情報は断片的でもあり、それを一つの「ストーリー」にする役割は、やはりニュースメディアに一日の長があるように感じた。犯人がボストン郊外のウォータータウンを逃亡する中、それを一つのまとまった物語へと変えていくのが、ニュースメディアだと感じた。
(4)ツイッターの投稿には、「私の家の裏の情景は、今こんな風になっている。信じられない」というコメントとともに、SWATチームが民家の屋根の上によこたわって狙撃態勢になっている写真もあった。今回の事件においてソーシャル・メディアが果たした役割は今後検証されることになるだろう。
(5)それにしても思ったのは、「ニュース」は一体誰の視点に立っているのか、ということである。それは、犯人が逃げ惑っている地域の、恐怖と不安、緊張のさなかにある住民たちの視点ではない。警備と捜索に当たる警察やFBIの視点ではない。逃亡する19歳の青年の視点ではない。
(6)「ニュース」は、ボストンマラソンテロの被害者の視点に立つのでもない。犯人の母親の視点でもない。犯人と同じ高校に通ったクラスメートの視点に立つのでもない。事態の推移を見守り、指揮をとるオバマ大統領の視点に立つのでもない。「ニュース」の本質は、傍観者だということにある。
(7)すべては遠近法に関わる。今回の事態について、最も強い関与と利害を持つ人の視点は、ニュースの視点ではない。ニュースは、当事者の限界を超えると同時に、当事者の身体性を消す。ニュースに接することは、現代について考えるきっかけは与えるが、一人称を生きる知恵にはつながらない。
(8)英語のツイッターに、Ben Affleckよ、台本は進んでいるか、というツイートがあった。いずれ、今回の事件も映画化されるかもしれない。その際には、犯人の、被害者の、住民の、あるいは指揮官の視点が描かれることになるだろう。そうでなければ、人間のドラマが立ち上がらない。
(9)今ボストンのどこかに潜んでいる19歳は、やがて発見され射殺されてしまうのだろうか。何が彼を蛮行に駆り立てたのだろう。「ニュース」の中には、構造的に当事者はいない。ソーシャルメディアがニュースを変えられるとすれば、当事者の視点のマルティチュードとしてだろう。
 今日も素敵な出会いと感動を。

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